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雷電爲右エ門(雷電) - 手形 扇面

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  • 佐久間象山 雷電爲右エ門 - 手形 扇面0
  • 大田南畝 雷電爲右エ門 - 手形 扇面1

作者 雷電爲右エ門(雷電)
らいでんためえもん
作品名 手形 扇面
詳細 18x51cm 雷電、大田南畝(蜀山人)
14x50cm 佐久間象山
17x50cm 谷文晁
17x46cm 大窪詩仏
価格 お問い合わせ下さい

雷電爲右エ門

雷電 爲右エ門(為右衛門、らいでん ためえもん、明和4年(1767年)1月 - 文政8年2月11日(1825年3月30日)は、信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市)出身の元大相撲力士。
現役生活21年、江戸本場所在籍36場所中(大関在位27場所)で、通算黒星が僅か10・勝率.962で、大相撲史上未曾有の最強力士とされている。

来歴
誕生〜松江藩の抱えに
明和4年(1767年)1月、信濃国小県郡大石村字金子にて、関家の長男として誕生する。幼名を太郎吉(または樽吉)。幼い頃から体格に恵まれ、14-15歳頃には6尺に達していた。家事を手伝って、遠く上野国まで往復していた。13歳の時に小諸の城下町へ出稼ぎにゆき、精米所の柳田藤助の下で奉公した。仕事ぶりと怪力が評判を呼び、藤助の伝手で長瀬村の庄屋上原源吾右衛門(2代為久)が関家へ相撲の修業をさせたいと申し込んだ。上原家は代々相撲が大層好きで、自前の土俵を構えて20人ほどの少年の世話をしていた。以前巡業でこの地に滞在した浦風林右エ門が上原家と親交を結んでおり、この道場から浦風部屋にスカウトされることもあったという。天明元年(1781年)4月、太郎吉は上原道場の門弟となり、相撲の稽古や読み書きそろばんを習う。読み書きも四書五経を習うなど、門下生の中で秀才四人衆に数えられた。源吾右エ門は太郎吉にさらに期待をかけて、長昌寺の監峰和尚につかせて厳しい修業を行った[1]。
天明3年(1783年)、天明の飢饉が発生する。全国で一揆が相次ぎ、当時の相撲集団の大きな収入源であった巡業も相次いで中止された。浦風一行は北陸巡業を行っていたが収入を断たれ、凶作の被害を受けなかった上原道場に転がり込み、力仕事を手伝いながら慰安相撲を行いつつ、翌年春まで逗留した。太郎吉も関取衆に稽古をつけられることによって力をつけ、また浦風から力士になることを進められたという。天明4年(1784年)秋、太郎吉は上京する[2]。
浦風は上京してきた太郎吉を、すぐに初土俵はさせず、徹底して稽古をつけ、その素質を存分に開花させる方針を立てる。太郎吉は伊勢ノ海部屋へ入門し、当時の角界の第一人者であった谷風梶之助の内弟子とした。以降数年、不況による本場所の中止が相次ぐなか、太郎吉は谷風の胸を借りて力をつけ、初土俵に備えた[3]。天明8年(1788年)11月、部屋の柏戸勘太夫の紹介で松江藩の抱えとなり、4人扶持で松江藩士となった。また、信州の両親には金40両が与えられた。そして四股名は、雲州ゆかりの「雷電」を名乗ることを許された[4]。
現役時代
寛政元年(1789年)、西片屋のみで甲斐国鰍沢村において巡業を行い、雷電は都合で欠席した谷風にかわり大関で7日間興行をつとめた。これが記録に残る雷電の最初の土俵である。この番付のみ、「雷電為五郎」の表記である[5]。その後大坂へ向かい、8月場所で小結に附け出された。本場所での番付登場は初めてであったが、この場所を全休する[6]。江戸での11月場所は師匠の浦風が勧進元であったが、雷電ら雲州抱えの力士は藩主松平治郷に従って大坂から直接松江に下り、場所に参加できなかった。8月23日、三人扶持で扶持米を下賜され、正式に藩の相撲衆に加えられる。そのまま雲州で稽古、相撲披露、巡業などを行って年を越した[7]。江戸の本場所では、兄弟子の谷風が小野川喜三郎とともに横綱免許を受けた。この横綱免許を機に、江戸相撲は最初の黄金期を迎えた[8]。
寛政2年(1790年)、3月場所も欠場。藩主から江戸勤番の命が下り、4月20日に江戸に下る。5月24日から泉岳寺の花相撲に出場。次いで四谷で行われた興行はより小規模な「稽古相撲」という扱いで、寺社奉行の見分も不要という新しい形態の相撲であったという。7月下旬から北陸巡業が始まり、雷電は病気のため遅れて合流。柏崎、善光寺、熊谷、鴻巣と回り、その合間を縫って大石村の故郷へ帰省している[9]。11月場所、雷電は谷風に続き、柏戸をも上回って関脇に附け出された。10日間の興行で、雷電は8勝2預の土つかず。初土俵の場所で優勝相当の好成績を上げた。8日目の小野川との対戦では、雷電の寄り倒しと小野川の打棄りとを巡って大物言いになり、勝負検査役は預りと宣告した[10]。
寛政3年(1791年)、木更津での興行を終えて海周りで江戸へ戻り、程なくして4月場所が始まる。初日から3連勝したところで上覧相撲による中断が入る。6月11日の上覧相撲で、雷電は結び前で同じ関脇の陣幕島之助と対戦。取組は陣幕が立合いから一気にのど輪で攻め、そのまま真一文字に雷電を押し出しに破った。雷電はこれが公式の取組での初黒星となった。上覧相撲後に再開された本場所でも、5日目に前頭4枚目の梶ヶ濱力右エ門に敗れる。9日目に陣幕との対戦が再び組まれ、今度は雷電が勝った。この場所は6勝1敗1無勝負2休[11]。7月17日から東海道を巡業し、藤沢、見附宿で興行を行い、大坂での8月場所に出場。谷風に代わり大関を務める。次いで堺、津での興行を経て、11月場所では8勝1預1休の土つかずの成績を残す[12]。
寛政4年(1792年)、2月28日に雲州抱え力士は藩主の下向に従って松江へ下り、江戸3月場所は不出場。御前で稽古相撲を披露するなどし、3月28日まで滞在、その後4月10日に大坂に直接入る。以降、大坂、名古屋、大坂、京都と連続して興行。京都場所では九紋竜との取組の最中、見物席の詰め過ぎと騒ぎすぎのあまり桟敷が落ち怪我人が出て、取組は引き分けとされた。場所終了直後、兄弟子の柏戸の死に直面する。9月の3度目の大坂場所は不入りで打ち切られる。10月20日に江戸へ戻り、11月場所に出場。しかしこの冬は江戸を大雪が襲い、3日間で打ち切られた。雷電の成績は2勝1休[13]。この頃、臼井の甘酒屋の娘はん(後に八重)と結婚し、麹町十丁目の長屋に新居を構える。
寛政5年(1793年)、1月から大鷲、銚子、関宿と巡業[14]。3月場所では8日目に常山五郎吉に敗れて8勝1敗。6月、東海道を吉原宿、掛川、袋井と巡業[15]。 8月、松江に小野川ら藩外の力士も招き、大規模な国内巡業を行った。御前相撲では小野川と取り、「五分」であった[16]。10月場所では8勝1預1休で土つかず、初土俵場所いらい6場所ぶりの優勝相当成績を挙げた。以降、出場した場所で優勝を逃したのはわずか2場所である。年末、大石村の実家に帰省。妻の八重を親戚に披露した[17]。
寛政6年(1794年)、帰省中に桜田火事が発生。松江藩屋敷や雷電の自宅は罹災を免れた。神田明神で義捐興行を行う。2月20日から信州方面への巡業。岩村田城下、諏訪を経て、3月17日、18日は故郷大石村で相撲を披露した。江戸の3月場所は上覧相撲が近いと寺社奉行から内示されていたため勧進元は開催を急ぎ、21日の初日には間に合わずに休場。4月9日に上覧相撲が割り込み、雷電は千歳川庄太夫を押し出しに破った。その後の「お好み」では幕下の磐井川逸八と対戦し、つきひざで下した。本場所は5月下旬までかかってとり、雷電は6勝1分1預2休で優勝相当成績となった。11月場所でも8勝1預1休、優勝相当成績であった。[18]。
寛政7年(1795年)、年始に江戸にインフルエンザが大流行、谷風もこれに罹患し、1月9日に没する。3月場所では雷電が大関に上る。場所は雨天続きの上にインフルエンザの影響で客足が悪く、5日目で打ち切り。雷電は全勝した。[19]。その後大坂、京都の場所にも出場し、8月下旬、4度目の松江入り[20]。12月、出雲大社でも相撲を奉仕する[21]。
寛政8年(1796年)、4月に入って上京が許される[22]。11月の江戸場所では、9勝1休で優勝相当成績。
寛政9年(1797年)、3月場所7日目に花頂山五郎吉に敗れる。花頂山は4年前に敗れた常山と同一人物で、雷電に2勝した唯一の力士となった。雷電の最終成績は8勝1敗1休、優勝相当成績であった[23]。5月、松江で病気になった藩主治郷の鶴の一声で抱え力士が急遽松江へ下り、8月に治郷が回復するまで毎日のように御殿で相撲を奉仕した[24]。10月場所、10戦全勝で優勝相当成績。この時代の相撲は千秋楽は女人禁制を解いて幕下以下のみの取組を披露するのが慣例であったが、この場所は雷電と小野川がともに五人抜きを披露した。ところが小野川はこの場所限りで引退(雷電との直接対決は雷電の2勝2分)。以降永らく、雷電の一強体制が続く[25]。
寛政10年(1798年)、3月場所では8勝1無勝負1休で優勝相当成績。6月からは奥州巡業に出かける。庄内藩、秋田藩の力士が片屋を占め、雷電らは客分格であった。7月15日から秋田久保田城下で10日間興行。次いで大達、ぬしろ、人市宿、鶴岡で興行[26]。巡業中の7月8日、長女が死去。江戸10月場所では小野川の久留米勢に代わって花頂山の庄内勢が東方を占める。両藩の家老が土俵下に控え、行司や年寄衆を巻き込んで口論になるなど大荒れとなった場所は、雷電の9勝1休、土つかずの優勝相当に終わる[27]。場所中の11月7日、こんどは父の半右衛門が死去する[28]。
寛政11年(1799年)、2月場所では6勝1休で優勝相当成績。大坂、京都、松坂、名古屋と回り、名古屋の森林平のもとで胸の治療を受けた。[江戸相撲寛政11年11月場所|11月場所]]では9勝1休、7場所連続の優勝相当成績。不出場となった場所を除くと11場所連続という空前絶後の記録を残した。12月に入って藩から松江行きを命じられたが、体調を崩して暫く江戸に留まる[29]。
寛政12年(1800年)、改めて藩命が下ったために2月に松江入りし、ひと月余り相撲披露[30]。江戸春場所は期日を伸ばして松江藩と出場交渉を行ったが実らず、これに合わせて延期されていた大坂の夏場所には雲州勢は間にあったものの、既に雲州勢抜きで番付が編成されていたため出場できなかった。そのまま北陸巡業を行い、途中大石の実家に立ち寄る。丁度この頃、生家を建て替えた。9月に銚子で興行を行ったが、藩主松平輝和が死去したため場所中に打ち切られた。江戸に戻って10月場所、雷電は初日にいきなり鯱和三郎に敗れ、江戸相撲での連勝が44で止まった。この場所は6勝1敗1預2休、優勝相当成績は土つかずの千田川であった[31]。
享和元年(1801年)2月、八重の故郷臼井にて興行。次いで江戸崎、杉崎新田で興行をしたが、3月場所には間に合わずに最初の2日を休場する。6勝1預1休で優勝相当成績。この年の夏に病を得て、湯本で3日程休場。名古屋、8月に大坂、京都で場所を打つ[32]。9月に松江入りし、そのまま年を越す。町の相撲場での興行を藩主治郷が観覧した[33]。
享和2年(1802年)2月、治郷が参勤交代で江戸に発った直後、丸亀藩抱えの大関平石七太夫が来ていたため、一行の出立前の合間を縫って急遽2日間興行を行う。この興行は開催の前日に決まったため、文字の部分が白い凹版印刷の番付表となった[注釈 1]うえに、雨雪に遭って客入りは悪かった[34]。そこから浜田、広島などを回って九州へ巡業に向かい、4月には島原で半月ほど休暇を過ごす。長崎では中国人と酒の飲み比べをして勝利し、中国人から書画や支那カバンを譲られた[注釈 2]。長崎での興行も雨にたたられ、10日間の興行に1ヶ月かかった。8月には出雲の向こうを張る久留米藩で興行を行ったが、ここでも雨に降られ、雷電らは「敵地」で半月近く足止めを喰らう。その後瀬戸内の玉島、丸亀を経て、10月には大坂で本場所に出場。江戸11月場所には1年半ぶりに参加したが、本場所が雨で延期を重ねたため場所後に予定されていた上覧相撲が場所を中断して開催された。この回の上覧相撲では雷電は2番とっていずれも勝利、その後の五人掛りにも勝った。本場所では8勝2休の土つかず[35]。
享和3年(1803年)、正月に大石村へと帰省する。3月場所は麻疹が大流行して、7日目で打ち切り。雷電は5勝2預の土つかず。7月に大坂、8月に京都で本場所を行い、9月には近江を回る。10月場所では雲州から讃岐へと移籍して片屋も移った秀ノ山伝治郎を破るなど9勝1休の土つかず。国許から帰藩の命が下ったが、ケガにより遠慮している。この頃、藩邸近くの四谷へ引っ越した[36]。
文化元年(1804年)、江戸の春場所は帰藩を病欠した手前不出場として、北関東を巡業で回る。その後、江戸の藩邸で相撲披露。6月には仙台へ向かって谷風の追善相撲。その後東北を回る。8月5日、象潟地震の被災地を歩く。その後江戸へ戻っての10月場所では、5日目に柏戸宗五郎に不覚を取り、連勝は38でストップ。この場所は8勝1敗1休で優勝相当成績[37]。
文化2年(1805年)、2月場所中にめ組の喧嘩が勃発。雷電の関わりは詳細でないが、その日記には大喧嘩の現場の描写が事細かに描かれている。この場所雷電は10戦全勝。夏には大坂、京都で本場所を打つ。帰りは中山道を下り、信州巡業と前後して大石の実家に里帰り。10月の江戸場所では6日目に春日山鹿右衛門に敗れる。9勝1敗で優勝相当成績[38]。
文化3年(1806年)、本場所前に木更津での興行を7日間打つ。2月場所で4日目に音羽山峰右エ門に敗れる。場所中に文化の大火が発生し、本場所は5日間で打ち切られる。雷電の成績は3勝1敗1休。雷電の家は火の帯から遠く無事であった。4月から巡業で北陸、東北などを回ったが、大火後のインフレで勧進元が見つからず、一行が自主興行をしながら進むという異例の形をとる。5月の大坂場所でも雷電は大関として番付に載ったものの、手興行に悪戦苦闘中であったため出場できなかった。暮場所は悪天候で順延を重ねたうえにまたしても火事で長期中断を余儀なくされる。雷電は長期中断中に桶川で1日限りの巡業を行っている。この場所雷電は9勝1預で3場所ぶりの土つかず、優勝相当成績であった[39]。
文化4年(1807年)、2月場所では寒波や火事に見舞われて客入りは少なかった。雷電は8勝1預1休。7月大坂場所は大名家に不幸があったため打ち切られ、雲州勢はそのまま松江に入って興行。10月の京都相撲を経て帰京。11月場所では再び大入りとなる。雷電は8勝1預1休で優勝相当成績[40]。
文化5年(1808年)、2月に銚子にて師匠の浦風の追善相撲。江戸の春場所では7勝1無勝負2休。夏の巡業で信州の海野の白鳥神社で興行を行う。白鳥神社は大石の実家からほど近く、初めて上京するときに出世を誓った場所であった。10月場所は鏡岩濱之助に敗れて9勝1敗、柏戸と同成績である[41]。
文化6年(1809年)、2月場所では8勝1預1休。4月、藩主斉恒の参勤交代に先発したが、小田原で腰痛のため特例で離脱、箱根の塔ノ沢で6月まで湯治する。完治した後は、江戸の力士若干名を呼び寄せて関東一円を巡業して回った。10月場所では新入幕の立神盤右エ門に不覚を取り、最後の2日を休んで7勝1敗2休[42]。
文化7年(1810年)、2月場所では9勝1無勝負。東海道を上りながら興行を行い、京都で本場所を行ったが、この場所雷電は2敗した。江戸に戻っての10月場所、5日目に江戸ヶ崎源弥に敗れる。最後は柏戸との大関対決を引き分け、7勝1敗1分1休。優勝相当成績[43]。
文化8年(1811年)、2月場所では番付には載ったが腰の調子が思わしくなく休場。場所後に引退を申し出る。閏2月14日、正式に引退。江戸相撲の本場所は34場所出場して254勝10敗、勝率9割6分2厘であった[44]。
引退後
文化8年(1811年)閏2月14日、丁度参勤で江戸にいた藩主斉恒の許可を得て現役引退、同時に藩の相撲頭取に任命された。その後、史料によって塩原温泉で秋まで養生したとも、東北へ巡業に出て相撲をとっていたとも伝えられている[45]。
雷電の引退により、出雲抱えの力士は関脇の玉垣額之助ひとりとなった。雷電は藩命により他藩力士のスカウトや玉垣に有利な番付、取組編成のための交渉を命じられる。結局これは上手くゆかず、玉垣は文化9年(1812年)、1場所だけ大関を務めて引退してしまう。9月、地元善光寺で引退披露の大興行を行い、松代藩主真田幸専の御前相撲も披露される。しかしこれ以降も、半現役の状態がしばらく続いたという[46]。
文化11年(1814年)、3年前の火事で罹災した報土寺の再建にあたり、藩ゆかりの寺であった縁で雷電が鐘楼と梵鐘を寄贈する。その時、雷電と親交のある狂歌師の蜀山人の提案で相撲をモチーフにした梵鐘を制作した。これが評判を呼んだが、幕閣の本多忠顕に目をつけられる。本多家は、元々出雲松平家と反りが合わないところがあったのである。鐘の鋳造について寺の住職などが呼び出され、ついには雷電の相談にのったひいきの旦那衆の一人が獄死を遂げた。結局、雷電は江戸払いに処せられてしまう。
文化12年(1815年)、数えで49歳となった雷電は、巡業も含めて現役を完全に引退する決意を固める。4月末から5月にかけて、妻の生地、臼井で5日間興行を行う。7月から8月にかけて大石村へ里帰り。8月12日、白鳥神社で最後の相撲披露を行った。これを最後に、雷電は土俵を去った[47]。
以降も、頭取として抱え力士(この頃の出雲藩では、ほとんどが江戸籍の出入り力士であった。)の世話や藩主の都合との調整、相撲会所との本場所出場の交渉などを行った。この頃、前藩主の不味が病の床に就く。その最中の文化15年(1818年)、2月場所直前に出雲藩の看板力士であった鳴滝忠五郎が現役で死没する。番付再編成で小結に抜擢された縄張綱右エ門が優勝同点の成績を挙げて面目を保った。場所中、雷電は毎日相撲会所によるまで待機し、勝負付が刷り上がるとそれを早馬で不味のもとに届けていた。場所後の4月24日、不味が没する。この年の秋から翌年にかけて、出雲力士の有馬山龍右エ門の小野川襲名を巡って久留米藩と対立、雷電は諸方の要求の板挟みとなり、結局小野川襲名を短期間で断念せざるを得なかった[48]。
もともと相撲に熱心でなかった藩主斉恒は、この頃から抱えの力士を他藩に次々に移籍させ始める。雷電は命に従い、各藩に力士移籍の交渉を行った。雷電は藩に懸けあい、それまで世話をかけた弟子たちに扶持米や化粧まわしなどを分け与えた。文政2年(1819年)3月28日、3月場所の分の給金7両を受け取り、それとともに雷電は頭取を辞め、松江藩との縁を切った。それでも閏4月11日、斉恒の参勤交代出発の日に雷電や旧抱え力士たちが集まり、品川まで見送った[49]。
以降の晩年の消息についての詳しい史料は少ない。文政4年(1821年)の母・けんの葬儀には帰郷した記録がなく、翌々年の3回忌の時に帰った記録があるのみである。文政5年(1822年)、旧主斉恒の葬儀では、斎場の遠くから見送った[50]。
文政6年(1823年)は臼井の八重の実家近くで逗留する。丁度この頃、松江藩の家臣の間で、再度相撲藩として力士を抱え直すこととなり、雷電もこれに加わる。雷電は江戸へ戻って有望力士を探し、当時幕下であった稲妻雷五郎と鳴滝文右エ門を探し出す。両者はそれぞれ大関・小結に上がり、稲妻は横綱免許を受けた。文政7年(1824年)、両者ともに大関の柏戸を苦しめるなど好成績を上げ、「相撲王国」は復活の第一歩を記した。しかし、程なく雷電は死期の床に就く[51]。
文政8年2月21日(1825年4月9日)、雷電死去。59歳没。死因やその他詳しいことなど、雷電の死を伝える史料は少ない。墓所は赤坂の報土寺に存在するが、生地である長野県東御市の関家の墓地や、妻・八重の郷土である千葉県佐倉市の浄行寺、島根県松江市の西光寺にも雷電の墓と称するものがある。

Wikipediaより

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